FC バルセロナ、唯一無二のクラブ
「Més que un club」(クラブ以上の存在)、がこのクラブを語るときには欠かせない。
なぜ「クラブ以上の存在」なのか?今回はその秘密の一部に迫りたい。
バルセロナのカンプノウスタジアム
昨シーズン、スペインのチームで史上初の3冠に輝いたFCバルセロナ、
その他にも過去数々の栄光を築いてきたクラブだが、それ歴史は決して明るいものばかりではない。
クラブの始まり
クラブは1899年、スイス人のHans Gamperが仲間を集め創設、初代会長はイギリス人のWalter Wildだった。
少し話はそれるがスペインでは、日本のJリーグとは違い、企業ではなく地元住民のコミュニティの中からクラブが生まれる。
スペインではなくカタルーニャ
創設者がスイス人で会長がイギリス人だから外資系か?と思うが二人ともカタルーニャを愛している人物だったようである。
事実、創設者のスイス人はスペイン語よりも先にカタルーニャ語を覚えた。
そう、スペインよりもカタルーニャこれこそがこのクラブを理解するうえで最も重要だ。
かつてバルセロナにいる友人からこんな話を聞いたことがある。
「カタルーニャには自分がスペイン人とは思わずカタルーニャ人と思っている人がたくさんいる。
バルセロナファンはその典型だ。
そういう人たちは“スペイン”を表現するようなすべてのものを拒絶する。つまり、レアルマドリードもね。
もしバルセロナにマドリッドファンがいたらそれを口には出せないよ。喧嘩になっても不思議じゃない。」
1910年に作られ、現在に受け継がれるクラブの紋章には、カタルーニャの旗と守護聖人の聖San Jorgeの十字が含まれている。
FC バルセロナのエンブレム
その後、クラブの公式文書がカタルーニャ語でかかれることになり、
またLiga Regionalista(地方主義連合)の政治家が会長になるなどして政治色も強くなっていった。
抑圧されるフットボールクラブ
上記のようにカタルーニャを強烈に表現したこのクラブは、二人の軍人の時代に抑圧される対象となる。
将軍Primo de Riveraの独裁体制が始まった時、バルセロナのファンは分離主義者とみなされた。
そして内戦~フランコの時代、FC バルセロナは最も暗い時代をすごす。
スペイン全土を本当の意味で統一しようとしたフランコはあらゆる地方文化の表現を禁止したからである。
1936年にスペイン内戦が始まり、クラブの会長でありカタルーニャ共和国議員であったJosep Suñolは逮捕され、暗殺された。
その翌年にクラブはアメリカ大陸に遠征、数人の選手がそのまま亡命。
38年にはクラブの本部が爆撃され、翌年フランコの軍がバルセロナを占領。
クラブの歴史には39年の占領は下記のように記録されている。
「民主主義の擁護者であり、カタルーニャの最も偉大なシンボルのひとつであるFC バルセロナにとって重大な問題」
内戦後、従来Socio(クラブの会員)の選挙によって決められていた会長は、体制側が一方的に決めることになり、クラブ名はスペイン語にされ、前述の紋章も強制的に変更された。
こんな時代にもこのクラブはいくつかのタイトルを取っていて人々はスタジアムの中で応援し、
Catalanismo(カタルーニャ主義)を表現していたというのはよく聞かれる話だ。
カタルーニャの人たちにとってはこの上ない喜びだったのだろう。
さらにフランコ体制の晩年、オランダ人のスーパースターが加入した。
彼は「独裁者のチームではプレーできない」と言って、レアルへの入団を断り、
自分の息子にカタルーニャ語の名前を付けた。今はカタルーニャ名誉市民だ。
そして「クラブ以上の存在」へ
現在世界一の人気を誇るこのクラブにも上述のような過去があった。
こんな歴史を持つからこそ、唯一無二のクラブになれたのかもしれない。
現在胸のスポンサーにはユニセフ、スポンサー料をもらうどころかユニセフに寄付している。
こんなクラブは他にはないのではないか?
クラブではSocioの役割が非常に大きく、そのクラブ愛も強い。
1899年の創設時に32人だったSocioの数は現在約16万人、およそ10万人収容のスタジアムはSocioの出資で建設された。
クラブの会長もSocioの選挙で選ばれる。
「カタルーニャにおけるあらゆるスポーツ、そして文化に対する貢献」を理念に掲げ、
アマチュアからプロまであらゆるスポーツ部門を持ち、美術コンペのイベントも開催する。
クラブを訪問した際、一人の女性従業員が冗談交じりにこんなことを言っていた。
「この町で警察に捕まってもSocioのカードを見せれば大丈夫よ。」
まさに「Més que un club」だ。





